EDM専門サイトを、なぜ立ち上げたのか。

僕が’94年にLOUDを創刊したのは、まず第一に「大好きなUKのプログレッシブ・ハウスやクラブ・シーンを広めること」が目的だった。当時、日本のクラブ・シーンは、クボケンが僕をレジデントDJにしてやってくれていたCLUB VENUSや、わずかなテクノ系のパーティーを除いては、まだまだNY寄りだったし、UKやヨーロッパのダンス・ミュージックは邪道扱いだったから、自分で媒体をつくって宣伝しなければ道が開けなかったのだ。僕は、この業界にそもそもクリエイターとして入っているから、それは切実な問題だった。

幸いにして、テクノ・ブームの訪れや、「クラブ・ミュージックの中心地はUK」というコンセンサスが’90年代を通じて世界的に出来上がったので、僕の無謀な試み(月刊誌のような紙媒体を作るには、最初に何百万〜何千万もの赤字を覚悟しなくてはならないのです)は失敗せずに済み、日本におけるクラブ・シーンもUK/ヨーロッパ・スタイルで定着した。

しかし、2003年にUKでクラブ・バブルが崩壊してから、’00年代はダンス・シーンにとって、けして明るいものではなくなってしまった。“エレクトロ”という、従来のクラブ・カルチャーに対する新潮流が、インディー・ロック・シーンを巻き込んで台頭してきたものの、これは巨大化したメインストリームに対するカウンターという色彩を持っていたため、自らの制約から離れられない運命にあった。例えばエロル・アルカンに、アリーナで回すようなDJになるという選択肢は無かったのだ。ゆえに、エレクトロはクールなイメージのままだ。

この状況を打破する国となったのが、なんと僕の苦手なアメリカだった。アメリカは、“エレクトロニック・ミュージック不毛の地”として、’90年代にヨーロッパでどんなにシーンが大きくなっても、それをほぼ無視し続けてきた。メジャー・シーンで、ヒップホップやR&Bは大人気だったが、ハウスやテクノは相手にもされていなかった。

そこに登場したのが(実はベテランの)デヴィッド・ゲッタだった。彼はハウスとヒップホップを融合させ、アメリカの一般人にまで、その新しい音楽を知らしめた。このあたりは、彼のドキュメンタリー映画を見るとよく分かる。かくしてクラブから生まれたエレクトロニック・ダンス・ミュージック(EDM)は、ついにアメリカでブレイクした。

ゲッタで突破口が開かれたアメリカには、怒涛のようにEDMの波が押し寄せた。その波はデッドマウスやカスケード、スクリレックスといった北米拠点のアーティストや、ヨーロッパの新世代アーティストの動きとも合流し、おそるべき大きさになった。これが、今起きていることだ。

僕は、今アメリカで起きているEDM革命が、ダンス・ミュージック・シーンにおいて、歴史に残るような極めて重要なことだと思っている。だから、その動きに参加したいし、それを日本にも広めたい。そのために、EDM専門サイトEDM World Networkを立ち上げた。気分的には、LOUDを立ち上げたときと、まったく一緒だ。

日本では、まだEDMという言葉はあまり知られていないし、僕がなぜそこまでEDMに入れ込むのか理解できない人も多いと思うが、状況はいずれ変わっていくだろうと楽観視している。数は少ないが、業界内に理解してくれる人も出てきた。ありがたい限りだ。

まだ何十人というレベルかもしれないが、EDMを面白いと思ってくれる人も増えてきた。僕は彼らと積極的に交流していきたいと思っている。大きな流れは小さな渦から起きるのだから。