アメリカにEDMブーム到来

アメリカは、これまでエレクトロニック・ミュージック不毛の地と思われていたし、そこではクラブミュージックの扱いも基本的にマイナーなものだった。それが、ここ数年で大きく変ってきた。Billboard誌が若者の音楽としてEDMを取り上げたり、大きなフェスでもダンス・アクトがヘッドライナーに近い扱いを受けるようになってきた。

その原因は、もちろんデヴィッド・ゲッタが大ブレイクしたことにあるのだが、EDMは、今やアメリカの若者にとって「最もイケてる」音楽なのだ。ロックが元気を失っていく中、EDMの台頭は、とても目立つ。

EDM=Electronic Dance Musicは、元来エレクトロニックなダンス・ミュージック全般を表す言葉で、そこにはハウスからトランス、エレクトロ、ドラムンベースにいたるまで、様々なジャンルが含まれていた。しかし、近年EDMと言った場合、その範囲はもうちょっと狭くなる。エレクトロ・ハウスを中心に、エレクトロ、ダブステップあたりまでを指すことが多いだろう。この言葉が使われるのは、主にアメリカで、ヨーロッパでは使われることは少ない。

アーティストで言うと、ゲッタはもちろん、スウェディッシュ・ハウス・マフィア、スクリレックス、カスケード、アフロジャック、スティーヴ・アオキなんていうのが代表格として上がってくる。トランスからの転身組でティエストも、このグループに入れてよいだろう。

このアメリカにおけるEDMブームは、実はとてつもない起爆力を秘めている。アメリカには、世界最大の音楽マーケットがあるのだから。

しかも、アメリカで流行したことは、ほとんど日本にも遅れて入ってくる。すでに、その兆候はあるが、日本にEDMブームが到来するのも、そう先のことではないだろう。だから僕は、Loud Essentialsで、今一番面白いこのシーンからの音楽をたくさん紹介している。もともと自分はDJなので、近いうちに現場でのレギュラー展開もしたいなと思っている。

ヨーロッパでのダンス・ミュージック・ブームから20年余り、ゲッタがDJを始めてから30年という歳月を経て、ついにアメリカでEDMという名前の音楽は爆発し始めた。これは、ものすごく面白いことになりそうだ。英Guardian誌によると、International Music Summitのディレクター、ベン・ターナーは「20年の時を経て、EDMは成熟し、アメリカにおいてヒップホップ以来最大のユース・ムーブメントになった」とさえ称している。2003年にUKでスーパークラブ・バブルがはじけて以来、クラブ・ミュージック・シーンには、あまり明るい兆候はなかったが、暗黒時代はいつまでも続かないのだ。

エレクトロとテクノ

’90年代、四つ打ちの音楽は全部“テクノ”と勘違いされている時期があった。その頃、僕はUKのハウスにハマっていたし、むしろトランス的な音を創っていたのだが、“テクノ”に分類されて、説明に困ることが多々あった。Xtra(Yo-Cと僕が、新宿リキッドルームでレジデントDJをしていたパーティー)にNHKの取材が来て、「KEN ISHIIさんをどう思いますか?」みたいな質問を延々とされて、「いや、僕らがやっているのはUKのハウス・クラブやゲイ・クラブの日本版であって、テクノじゃないんです。クラフトワークじゃないんです。もっと快楽主義的なものなんです」なんてやりとりになってしまったことさえあった。

朝日新聞が、Fatboy Slimを“テクノ”と紹介していたのも覚えている。

その痕跡は、今でも日本版Wikipediaなどで見ることができる。ビッグビート系のアーティストまでテクノ扱いしているのは、ジャンル分けに正解などないにしても、訂正が必要だと思う。

今は、その“テクノ”役を“エレクトロ”が引き受けている。シンセが入っていれば、“エレクトロ”と呼ばれてしまうのだ。

僕は“テクノ”と“エレクトロ”の間には、意外に大きな溝があると思っている。
それは、メンタリティーの違いから発生する。

シンセを使いながらも、むしろ有機的な存在である“エレクトロ”が、USでB−MOREや、ヒップ・ホップと融合してエレクトロ・ホップになったのは、その流れで考えると自然なことだ。

最近のエレクトロが、ノイズの組み合わせというパンク的な方向や、オーガニックなリズムを志向するのも、おかしなことではない。

“テクノ”と“エレクトロ”は近くて遠い位置関係にある。それが面白い。

良さが分からない音楽については書かない

「LOUDには、ネガティブな記事やレビューが載りませんね」と、たまに言われる。こういうことを言われると、「ちゃんと読んでくれているんだ。ありがたい」と僕は思う。

実はLOUDには、ものすごく厳密な編集方針がある。

それは「良さが分からない音楽については書かない」ということだ。

音楽の好みは人それぞれであり、何かの調査によると、どんなキテレツな音楽にも7−8%のファンがいるのだという。であれば、魅力の分からない音楽については、別の人が取り上げればよいのだ。それが、アーティストに対する敬意の示し方であるとも思う。

音楽評論家の中には、何かをけなすことによって、別のものを持ち上げる文章を書く人がいる(多い)が、こういうことはLOUDではご法度だ。

批評、批判は文化を前進させるという意見もあるが、これは発言者のレベルによる。たとえば、坂本龍一さんが僕の音楽(笑)に、何か批評文を書いてくれたら、それは僕の音楽を前進させるであろうが、逆は成立しないのだ。草野球チームの四番が、イチローのバッティングを批評したとして、そこにたいした意味はないから。しかし、草野球チームの四番程度のバックグラウンドがあれば、イチローの良さはかなり分かるだろう。

こう考えてくると、たまにアーティストがインタビューで、「成功の秘訣は、他人の意見を聞かなかったこと」と答える理由が分かる。「俺たちは、自分たちがやりたいようにやっただけさ」というのも、同種の発言だ。

一見さらりとしたインタビューからは、いろいろなことを学ぶことができるのだ。