EDMとDJカルチャー

EDMのアーティストは、DJセットのほとんどを自分のオリジナル曲で構成する。
Zeddは、こう語っている。
“DJの本質っていうのはクラウドを見て、感じて、みんなが聴きたいと思ってるものをプレイすることだろ。それは自分(のやっていること)とはものすごく違う”
“僕のライブショウは、DJショウではまったくない。手段はDJだけど”

Zedd: I'm An Artist Who Presents A Show, Not A DJ | Forbes

彼らにとって、DJというのは自分の作品を発表する一形態なのだ。
クラブシーンに全く所属していなかったCalvin HarrisやKygoも、DJカルチャーからたたき上げで成功したDavid Guettaでさえも、同様の発言をしている。
Don Diabloは、DJはおばあちゃんでもできる、難しいのは人々をエキサイトさせる何かをつくること(=曲作り)なんだよとインタビューで答えているし、Hardwellは、いまの若いDJはヒット曲を出していきなりDJをするのさ、と語っていた。

これは何を意味するのか?

お客さんの様子を見ながら、主に他人の曲をつないでいくプレイで空間を作り上げていくDJと、EDM DJの間には、ほぼ接点がないということだ。名前は同じDJでも、まったく別のパフォーマンスだと言ってもよい。

この変化を理解するには、ちょっとばかりDJに関する知識が必要だ。

DJは、かつては職人芸だった。不安定なアナログターンテーブルを操作し、BPMをマニュアルで合わせ、ゆがみや針飛びもあり音量感も揃っていないレコードを、大音量の中でミックスしていた。
選曲も、アンダーグラウンドかつ高価なレコードを自分の耳と価値観、そして足で探し出し、揃え、ストーリーを構成しなくてはいけなかった。
それができるだけで、特殊技能を持ったパフォーマーであり、ある種のアーティストだったのだ。

しかし、デジタルDJでは、技術習得の必要はほぼなくなり、ヘッドフォンもいらないほどになった。
選曲だって、いたるところに音源は転がっているし、人気度も再生回数やチャートですぐにわかるから、一番需要のある“盛り上げるだけ”なら誰でもできるようになった(選曲は実際は奥深いのだが、それだけで1記事できてしまうので、ここでは割愛する)。
誰でもできるのだから、いまや単純にDJができるということ自体には、ほとんど価値はない。
あなたがバトルDJじゃない限り。

そうなったとき、次の進化段階で求められるのは、アーティスト性だ。
幸いなことにデジタルは、曲作りのハードルも下げてくれた。
かつては一台数万から数十万もする箱モノの機材を揃えなければできなかった楽曲制作が、PCとDAWだけでできるようになった。
そこで起きたのがEDMムーブメントだったのだ。

EDMムーブメントの本質で最も重要なことのひとつには、他人の曲をつないでいくDJカルチャーから、自分の曲をプレイするプロデューサー(ダンスミュージック・アーティスト)カルチャーへのパラダイムシフトがあった。

ダンスミュージックが大好きな、デジタルネイティヴの若者は、DJではなく曲作りからスタートする。これはいまや世界の常識だ。
ブレイクのきっかけは99%がオリジナル曲だ。
最近では、日本からもFakeではない、実力派の新人や若手プロデューサーが続々登場し始め、彼らは海外レーベルから直接リリースするというルートを選んでいる。
彼らの多くは、国内では無名か過小評価されているが、この状況はいずれ変わっていくだろう(と期待する)。
そこに健全なEDMシーンの発展があると思う。

最後に蛇足だが、オープンフォーマットDJをやって、ディスコ箱のチーフDJになるのがゴール(なかなかの高給らしいので、それもいいだろう)だという人は、そもそもEDMシーンとは関係がない。オープンフォーマットDJからEDMシーンのトップアーティストになった人は一人もいない。このへんも日本では誤解されているので、念のため。

Eric PrydzのEPIC 6.0: Holosphere

An exclusive look at Eric Prydz’s 5-ton LED Holosphere

2019年のTomorrowlandハイライトのひとつにEric PrydzのHolosphereがあった。
これは8mの球に240万個のLEDを配置した中でEricがプレイするというオーディオビジュアル・パフォーマンスなのだが、FREEDOMステージの天井が一週目と二週目の間に壊れてしまったため、1週目のわずか1ギグしか実現しなかった。
幸運なことに、僕はこれを見ることができた。
強烈な体験だった。

Ericは、この一連のEPICプロジェクトを、ほかのEDMイベントでは体験したことがないいほど観衆を圧倒するためにやっているのだという。これまで誰もやったことがないことで。
そして、みんなにとってそれは2時間だったかもしれないけれど、自分たちにとっては(それまでの)2年間だったと語っている。しかも、このプロジェクトは最初から赤字で、今後のギグ予定はないのだという。

EDMは音楽だから、アートでありカルチャーだ。Eric Prydzは、それを最も明らかな形で体現している。

詳細はTHE VERGEに載っている
ERIC PRYDZ IS GOING TO DJ INSIDE A GIANT GLOWING SPHERE — HERE’S HOW IT WAS MADE
ERIC PRYDZ’S 5-TON HOLOSPHERE SHOWS THE AMBITIOUS FUTURE OF CONCERT TECH

日本で起こったEDMとダンスミュージック・フェスティヴァルの悲劇

日本におけるEDMやダンスフェスの悲劇は、その理念が無視されて、パリピ経済と結び付けられてしまったことにあったなぁと振り返って思う。

パリピは英語で言うParty Peopleではなく、ちょっと前ならパラパラを踊っていたような人種だ。その対象はハロウィンや泡パや花火大会など、なんでもいいわけだ。それ自体、なんの問題もないし、僕はアンチ・パリピでもない。パリピの中にもテイラー・スイフト・レベルじゃなくダンスミュージックが好きな人もいるだろうし、そういう人はダンスフェスのマナーもわかっているだろう。彼らとは、一緒に音楽を楽しめると思う。何より、僕らダンスミュージック側の人間からしたら、パリピであるかどうかには意味はない。まったくどうでもいいことなのだ。パリピが好む音楽はEDMで、好むイベントはダンスフェスでも、ああそうなんですね、というだけの話だ。

問題は、そこが逆転して、「EDMやダンスフェスはパリピのもの」と勘違いされてしまったことにあった。

例えば、サッカーの日本戦で渋谷の交差点に集まる人には、パリピが大量に含まれているだろうが、サッカーやワールドカップがパリピのものだと思っている人はいない。サッカーはプレイヤーも含めサッカーファンのものであり、ダンスフェスやEDMはダンスミュージックファンのものなのだ。

ダンスフェスというのは、音楽フェスだ。だから、そこには音楽を楽しみたい人、それによってもたらされる一体感を味わいたい人が集まる。クラブは、より社交場的色彩が濃いので、そこではいろんな人との出会いもあるだろうが、それでも第一にあるのは音楽の場であるということだ。それが第一でないところは、チャラ箱、ナンパ箱と呼ばれ、区別されるが、これらは本質的に別業種でクラブと呼ぶにふさわしくない。DJも別業種のDJだ。

パリピブームも一段落し、日本のダンスミュージックシーンは焼け野原のように見えるが、本来ダンスフェスやEDMブームはダンスミュージックシーンを躍進させる起爆剤だったはずだ。Carl Coxが巨大ステージで再びプレイし、Fisherがグラミーにノミネートされることは、EDMブームがなかったら起こっていなかっただろう。

日本のダンスミュージックシーンは、ここからまたやり直しなんだと思う。今度はダンスフェスの理念や、国籍も人種も性別も年齢も関係なく楽しめるダンスミュージックの素晴らしさを第一にして。