僕のDJキャリア(本人が忘れないうちに書きました)

僕がDJをどうやって始めたのかというご質問をTwitterでいただきましたので、時系列で書いておきますね。年は、アバウトです。最近僕のことを知った人は、僕があまりにベテランwなので、驚くかもしれません。僕は今のところwwwトップDJではありませんし、プライベートな話なので、興味ない人はトバしてください。

’86年 大学生の頃、ストリート雑誌だった頃の宝島でDJのことを知る。曲をつなげられるということが面白いと思ったのと、バイトには恵まれていたので、楽器屋さんに行き、Technics SL1200 Mk2(ターンテーブル)とVesta Fire DSM-310B(ミキサー)を買う。お決まりのスクラッチの練習をするも全然できず。自分はニューウェイヴ好きだったので、ヒップホップを無理にやることもないかと思う。

’87年 友達の紹介で、赤坂のバーでDJバトルみたいなものに出演する。手持ちのレコードをかけたので、ラウンジ・リザーズにデペッシュ・モードとか、まったくデタラメなDJだったが、初めてギャラを5000円もらった。この頃、ハウスが登場したので、ハウスのレコードを買い始める。

’88年 ファッションが好きだったのでパルコに就職。札幌勤務に。

’89年 富家さんの成功に触発されて、ハウス制作を開始。音楽経験はDJ以外まったくなし。

’90年 日本にはハウス・レーベルが無かったので、すでにシーンが盛り上がっていたUKのレーベルにデモテープを送る。10社ぐらいに送って、そのうちの1社、HOOJ CHOONS(Viceroy Records)から国際電話で「出したい」という返事をもらい、舞い上がる。それでリリースされたのがデビュー曲の「Past,Present & Future」(今聴くと、あまりの稚拙さに赤面w)。たぶん日本人の楽曲で、UKのレーベルからライセンス以外でリリースされたハウスは、これが最初か二番目くらいだったと思う。というわけで、UKのシーンと、日本人としては珍しく交流を持つことになる。

’92年 UKとのコネクションがあったので、ハウスを扱っていた音楽雑誌のremixに転職。日本のクラブシーンと接点ができる。そこから、当時数少ないオーガナイザーだったチームと、remixの社長と、渋谷のパブを夜借りて、パーティを始め、ちゃんとした?DJを開始。remix nightでは、渋谷や下北沢の小箱で前座もやらせてもらう。僕が編集者上がりのDJだと誤解されているケースがあるけれど、それはこういういきさつから生じている。DJを本格的に始めたきっかけは、あくまでUKからトラックをリリースしたことで、編集者として興味を持ったからでは全くない。

’93年 著名な写真家でオーガナイザーでもあるクボケンのClub VenusレジデントDJになる。二人ともUKのバレアリックなクラブ・シーンを日本に持ってきたいと思っていたことから、意気投合した。ポール・オークンフォルド、アルフレドといったバレアリックの神様からカール・コックス、リッチー・ホーティン、ジェフ・ミルズ、デリック・メイなどテクノ勢まで、トップDJのウォームアップをずーっとやっていた。同時期、マニアック・ラブの開店時に、フランキー・バレンタインとレギュラーを持っていたが、集客できず、すぐにクビになるw(たぶんマニアック・ラブのスタッフでも、このことを知っている人は少ないw)。

’95年 外国人DJのウォームアップばかりやっていても国内のシーンは育たないと思い、Venus時代からの相方Yo-Cと、当時としては数少ない大箱だったリキッドルームの山根さんにかけあって、X-traを始めてもらう。理解してくれた山根さんに感謝。X-traは5年弱続き、1000人クラスのパーティに成長。大阪、金沢でもレギュラー開催されるようになる。音楽制作も活発に行っていて、’98年には「リング」の主題化がオリコン・ヒットに。ここが今のところ、僕のDJキャリアのピークかな。

’01年 ’90年代中盤からトランスに傾倒していたので、トランス・パーティーを、ルネス(今のWarehouse 702)やコアで始める。コズミック・ゲイト、ランジといったトランスDJやイビサのDJを招聘したりもして、500人規模までいく。トランスのCDも多数コンパイル&ミックスする。

’03年 個人的な興味がトランスから離れ、パーティをやるモチベーションが無くなる。

’05年 マッシュアップにハマり、日本には無かったマッシュアップのパーティを一度やってみるが惨敗。DJは完全休止状態に。個人的興味はエレクトロに移行。

’09年 ありがたいことに大沢伸一さんから、お声をかけていただき、音楽制作を再開する。

’10年 LDKレーベルの設立に伴い、DJも再開。この頃からAfrojackやTiesto & Diplo、Swedish House Mafia、deadmau5をきっかけにEDMにハマり始める。

’12年 世界的にEDMが盛り上がっているのに、日本のクラブシーンが乖離していることに疑問を感じ、ageHaのコウちゃんに話してみたところ、偶然彼もEDM好きだということが分かり、ageHaさん主催でEDM Statesが始まる。コウちゃんに感謝。ほぼ10年ぶりにレギュラーDJに復帰。

というわけで、僕は2000年代中盤、DJや音楽制作をほぼ休んでいたので、今は新人のような気持ちです。EDM Statesを大事に育てていきたいと思っています。

EDM DJになるには?

 僕のサイトのCONTACTコーナーや、Twitterから、「僕もEDMのDJをしています。こんなプレイをしています。僕をブッキングしてください!」というメールをよくいただくのですが、ちょっと説明が必要なので、記事を書くことにしました。

 まず、根本的な話ですが、僕もDJであって、オーガナイザー/プロモーターではないので、誰かをブッキングする立場にはありません。僕も雇われる側なんです。あしからず。

 では、プロのDJになりたい場合は、どうやったらいいのか?

 まず、友達をたくさん集めて、小さなスペースで、自分がオーガナイザーになってパーティを始めることです。僕も最初は、渋谷のバーを借りてパーティを始めました。友達以外の人なんて、どんなに宣伝したとしても、ほとんど来てくれませんから、5人とか10人の前でプレイすることになります。もちろん毎回大赤字です。この辺は、バンドがライブハウスを借りて、チケットを友達に手売りで売って最初のライブをやるのにそっくりです。

 次に、そういうことをやってがんばっているということと、どんなプレイをしているかが分かるようなプロフィールを作って、小さなバーやクラブにアプローチしてみてください。うまくいけば、そのクラブでパーティができるようになるかもしれません。その際、相手のクラブのことをちゃんと研究してから行ってくださいね。それは礼儀です。

 それで集客ができるようになったら、今度は「自分はこれだけ集客できる」ということをプロフに加えて、少しづつ大きなクラブにアプローチしていってください。この段階になると、僕のような、ブッキングする立場に無い人にアプローチしても、誰かコネクションを紹介してくれることさえあります。

 これだけです。

 アプローチ先は、基本的にはクラブのブッキング担当ですが、今はクラブのパーティも外部のオーガナイザー/プロモーターが仕切っていることが多いので、そういうところにアピールしてみてもよいでしょう。

 難しいですか?

 はい、難しいです。iFlyerさんのアーティスト登録者は1万人いるといいますから、かなりの難関と言ってもよいでしょう。しかも、DJをやりたい芸能人とかモデルとかは、最初から集客力があるので、スキルや経験が無くても優先的にブッキングされます。そういう状況が良いとはまったく思いませんが、DJにもショウビズの側面はあるので、やむをえません。

 では、ショートカットはないのか?

 あります。

 自分でトラックを作って、それをリリースし、beatportなどのチャートに食い込ませることです。先日のbanvoxのケースは好例でしょう。そうやって話題になれば、「DJはできないか?ライブはできないか?リミックスはできないか?」というオファーが来るようになります。

 もっとも、そこまで完成度の高いトラックを作れるようになるには、普通だと何年もかかりますし、才能も必要ですから、これは簡単な近道ではありません。

 どっちのコースを選ぶかは、性格によると思います。友達100人作れるような外向的な人には前者、芸術家タイプの人には後者が向いています。最近のEDM DJには、圧倒的に後者が多いですね。

 次に、EDM DJの特徴を書きますね。EDM DJは、テクノやハウスのDJとは、まったくスタイルが違います。

 まず、かける曲の6〜7割位は自分が手を加えた曲です。オリジナルが多ければ多いほどよく、それはゲッタやカルヴィン・ハリスのDJを見れば分かります。といっても、ほとんどの人はオリジナル曲を大量に持っていたりはしませんから、リミックス作品や、マッシュアップをかけることになります。つまり、beatportで買った曲を、そのままつないでも、EDMのDJとしては半人前にしかならないということです。かといって、他人が作ったマッシュアップをたくさんかけても、それは自分の個性にはなりませんから、あまり意味がありません。

 要するに、最低でも自分でマッシュアップが作れる程度のDAWスキルは必要なのです。これが、EDM DJにトラック制作から有名になる人が多い理由です。

 次に、クラウドとコミュニケーションを取る力が必要です。ゲッタのように自分でガンガンMCをする人もいれば、専属のMCを抱えている人、はてはマーティン・ソルヴェグみたいに歌っちゃう人までいます。デッドマウスの被り物も、コミュニケーションの一種と言えるでしょう。下を向いて、淡々と曲をつないでいてはいけないのです。アヴィーチーとか例外もありますが、彼の場合は、曲が圧倒的にいいですからね。かけるのは、ほとんど自分関連の曲ですし。

 そんなわけで、EDMは楽しい音楽ですが、本格的なEDM DJになる道のりは楽ではありません。僕もまだまだ勉強中です。オススメは、EDMの有名なDJがプレイしているところをYouTubeとかで見ることです。彼らのセットリストも参考になります。

 簡単に言ってしまえば、「EDM DJ=自分が手を加えた曲を、コンサートのように披露すること」なんです。だから、ギャラがあんなに高いんですよw

 最後に、EDMをやるなら、EDMに専念することをオススメします。例えば、今までやってきたソウルフル・ハウスのDJと並行して変名でやるとか、サイドプロジェクト的にやるのは、どうかと思います。だって、世界的に見たらEDMはメインストリームなんですよ。ティエストでさえ、今までやってきたユーロトランスを封印してEDMをやってるじゃありませんか。EDMは、それだけ魅力のある音楽なんです。

EDM専門サイトを、なぜ立ち上げたのか。

僕が’94年にLOUDを創刊したのは、まず第一に「大好きなUKのプログレッシブ・ハウスやクラブ・シーンを広めること」が目的だった。当時、日本のクラブ・シーンは、クボケンが僕をレジデントDJにしてやってくれていたCLUB VENUSや、わずかなテクノ系のパーティーを除いては、まだまだNY寄りだったし、UKやヨーロッパのダンス・ミュージックは邪道扱いだったから、自分で媒体をつくって宣伝しなければ道が開けなかったのだ。僕は、この業界にそもそもクリエイターとして入っているから、それは切実な問題だった。

幸いにして、テクノ・ブームの訪れや、「クラブ・ミュージックの中心地はUK」というコンセンサスが’90年代を通じて世界的に出来上がったので、僕の無謀な試み(月刊誌のような紙媒体を作るには、最初に何百万〜何千万もの赤字を覚悟しなくてはならないのです)は失敗せずに済み、日本におけるクラブ・シーンもUK/ヨーロッパ・スタイルで定着した。

しかし、2003年にUKでクラブ・バブルが崩壊してから、’00年代はダンス・シーンにとって、けして明るいものではなくなってしまった。“エレクトロ”という、従来のクラブ・カルチャーに対する新潮流が、インディー・ロック・シーンを巻き込んで台頭してきたものの、これは巨大化したメインストリームに対するカウンターという色彩を持っていたため、自らの制約から離れられない運命にあった。例えばエロル・アルカンに、アリーナで回すようなDJになるという選択肢は無かったのだ。ゆえに、エレクトロはクールなイメージのままだ。

この状況を打破する国となったのが、なんと僕の苦手なアメリカだった。アメリカは、“エレクトロニック・ミュージック不毛の地”として、’90年代にヨーロッパでどんなにシーンが大きくなっても、それをほぼ無視し続けてきた。メジャー・シーンで、ヒップホップやR&Bは大人気だったが、ハウスやテクノは相手にもされていなかった。

そこに登場したのが(実はベテランの)デヴィッド・ゲッタだった。彼はハウスとヒップホップを融合させ、アメリカの一般人にまで、その新しい音楽を知らしめた。このあたりは、彼のドキュメンタリー映画を見るとよく分かる。かくしてクラブから生まれたエレクトロニック・ダンス・ミュージック(EDM)は、ついにアメリカでブレイクした。

ゲッタで突破口が開かれたアメリカには、怒涛のようにEDMの波が押し寄せた。その波はデッドマウスやカスケード、スクリレックスといった北米拠点のアーティストや、ヨーロッパの新世代アーティストの動きとも合流し、おそるべき大きさになった。これが、今起きていることだ。

僕は、今アメリカで起きているEDM革命が、ダンス・ミュージック・シーンにおいて、歴史に残るような極めて重要なことだと思っている。だから、その動きに参加したいし、それを日本にも広めたい。そのために、EDM専門サイトEDM World Networkを立ち上げた。気分的には、LOUDを立ち上げたときと、まったく一緒だ。

日本では、まだEDMという言葉はあまり知られていないし、僕がなぜそこまでEDMに入れ込むのか理解できない人も多いと思うが、状況はいずれ変わっていくだろうと楽観視している。数は少ないが、業界内に理解してくれる人も出てきた。ありがたい限りだ。

まだ何十人というレベルかもしれないが、EDMを面白いと思ってくれる人も増えてきた。僕は彼らと積極的に交流していきたいと思っている。大きな流れは小さな渦から起きるのだから。