Alexander McQueen

 僕は20歳前後の頃、とてもファッションが好きだった。特にUKのデザイナーが好きだったので、ロンドンに行くと、昼は買い物、夜はライブ/クラブで、大忙しだった。

 ファッションと音楽が好きだったので、就職はそれに関連したものを探し、うまく某ファッション・ビルに就職することができた。

 それほど僕はファッションが好きだった。

 しかし、就職して業界の現実を見てしまってからは、急速に関心を失い、今に至っている。

 そんな僕にも、好きなデザイナーはいまだにいる。その一人が、Alexander McQueenブランドのLee McQueenだった。それだけに、彼が次の世界へ旅立ってしまったことには、悲しみを隠せない。

 素晴らしき才能ある者が、この世を早く去りがちなのは、なぜなのだろう?
 創造とは、かくも危険な行為なのだろうか?

 そんなことを、考えてしまった。

エレクトロとテクノ

’90年代、四つ打ちの音楽は全部“テクノ”と勘違いされている時期があった。その頃、僕はUKのハウスにハマっていたし、むしろトランス的な音を創っていたのだが、“テクノ”に分類されて、説明に困ることが多々あった。Xtra(Yo-Cと僕が、新宿リキッドルームでレジデントDJをしていたパーティー)にNHKの取材が来て、「KEN ISHIIさんをどう思いますか?」みたいな質問を延々とされて、「いや、僕らがやっているのはUKのハウス・クラブやゲイ・クラブの日本版であって、テクノじゃないんです。クラフトワークじゃないんです。もっと快楽主義的なものなんです」なんてやりとりになってしまったことさえあった。

朝日新聞が、Fatboy Slimを“テクノ”と紹介していたのも覚えている。

その痕跡は、今でも日本版Wikipediaなどで見ることができる。ビッグビート系のアーティストまでテクノ扱いしているのは、ジャンル分けに正解などないにしても、訂正が必要だと思う。

今は、その“テクノ”役を“エレクトロ”が引き受けている。シンセが入っていれば、“エレクトロ”と呼ばれてしまうのだ。

僕は“テクノ”と“エレクトロ”の間には、意外に大きな溝があると思っている。
それは、メンタリティーの違いから発生する。

シンセを使いながらも、むしろ有機的な存在である“エレクトロ”が、USでB−MOREや、ヒップ・ホップと融合してエレクトロ・ホップになったのは、その流れで考えると自然なことだ。

最近のエレクトロが、ノイズの組み合わせというパンク的な方向や、オーガニックなリズムを志向するのも、おかしなことではない。

“テクノ”と“エレクトロ”は近くて遠い位置関係にある。それが面白い。

良さが分からない音楽については書かない

「LOUDには、ネガティブな記事やレビューが載りませんね」と、たまに言われる。こういうことを言われると、「ちゃんと読んでくれているんだ。ありがたい」と僕は思う。

実はLOUDには、ものすごく厳密な編集方針がある。

それは「良さが分からない音楽については書かない」ということだ。

音楽の好みは人それぞれであり、何かの調査によると、どんなキテレツな音楽にも7−8%のファンがいるのだという。であれば、魅力の分からない音楽については、別の人が取り上げればよいのだ。それが、アーティストに対する敬意の示し方であるとも思う。

音楽評論家の中には、何かをけなすことによって、別のものを持ち上げる文章を書く人がいる(多い)が、こういうことはLOUDではご法度だ。

批評、批判は文化を前進させるという意見もあるが、これは発言者のレベルによる。たとえば、坂本龍一さんが僕の音楽(笑)に、何か批評文を書いてくれたら、それは僕の音楽を前進させるであろうが、逆は成立しないのだ。草野球チームの四番が、イチローのバッティングを批評したとして、そこにたいした意味はないから。しかし、草野球チームの四番程度のバックグラウンドがあれば、イチローの良さはかなり分かるだろう。

こう考えてくると、たまにアーティストがインタビューで、「成功の秘訣は、他人の意見を聞かなかったこと」と答える理由が分かる。「俺たちは、自分たちがやりたいようにやっただけさ」というのも、同種の発言だ。

一見さらりとしたインタビューからは、いろいろなことを学ぶことができるのだ。