’70年代末から’80年代前半に活躍したニューヨークのノー・ウェイブ系バンド/アーティスト群の中でも、特にカルト的な存在として知られるアイク・ヤード。ESGと並んで二組しか存在しない、マンチェスターのFactoryから作品を発表したUSバンドです。’06年には、当時FactoryとCrépusculeから発表したEP/LPなどをまとめた『1980-82 Cllected』がリリースされ、マニアの間で話題をさらっています。アイク・ヤードの中心メンバー、スチュワート・アーガブライトは、’83年にバンドが解散すると、その後はドミナトリックスやデス・コメット・クルー(DCC)といったエレクトロ・プロジェクトで活躍したので、こちらの名義でご存知の方も多いでしょう。
そんなアイク・ヤードが、スチュワートの呼びかけで復活し、なんと約30年ぶりとなるアルバム『ノルド』を、3月23日にリリースします。往年のアイク・ヤードそのままの、シンセやエフェクターを駆使したダークで無機質な音楽性と、エレクトロニカのエッセンスが融合した、モダンにして前衛的な内容で、’90年代には映画やTVのサントラを数多く制作していたスチュワートのキャリアも手伝ってか、映像的なサウンド・テクスチャーも印象的なものとなっています。
ここでは、そんな『ノルド』の内容と、アイク・ヤードの歴史について語った、スチュワート・アーガブライトのインタビューをご紹介しましょう。
IKE YARD
デス・コメット・クルーに続いて復活を遂げた、
NYノー・ウェイブの伝説的カルト・バンド
__あなたの、最初の音楽体験は何でしたか?
「たぶん姉がかけていたレコードを聴いたのが、最初だったんじゃないかと思う。あとは、家族でローリング・ストーンズのライヴをテレビで見たりとか。父が、ミック・ジャガーのパフォーマンスか何かにチャチャを入れていたのを覚えてるよ。小学校の頃、授業で「リスニング・タイム」というものがあって、それは、各自が好きなレコードを学校に持って行って、プレイしていいという時間だったんだけど、僕はジミ・ヘンドリックスの最初のアルバムを持って行って、それをみんなで聴いたね」
__いつ頃から、楽器の演奏を始めたのでしょうか?
「音楽をやろうってきっかけになったような出来事でいうと、(デヴィッド・ボウイの)ジギー(・スターダスト)のコンサートをテレビで見たのが、大きかったかな。ミック・ロンソンのギター・ソロは、今でも鮮烈な記憶として残ってるね。ボウイやイギー・ポップなんかのハードロックにハマるようになって、音楽の道に踏み込んでいったんだ。1972〜76年頃まで、高校のころの話だね。さらに言うと、テレビジョンとかリチャード・ヘルなんかのニューヨーク・パンク、これが本当に大きかった。あと、セックス・ピストルズね。友達とジャムってパンクを演奏するようになったんだけど、そんな中で、親友となるザ・ルーディメンツのギタリストなんかと出会ったんだ」
__あなたの生まれは、ワシントンD.C.だと聞いています。いつニューヨークに出てきたのでしょうか?
「父親がペンタゴンで働いていたんだよね。近隣の多くも、政府関係だとか、軍関係だとか、あるいはCIAだったりとかしたんだ。まぁ、そんな堅い環境だったから、実はルーディメンツは、最初のギグをやった後、活動禁止になってしまったね。それで、僕がニューヨークに行ったきっかけは、ファンジンだった。当時関わっていたファンジンで、ジェネレーションXのビリー・アイドルにインタビューしようということになって、ニューヨークに行ったんだ。小旅行みたいなものだったよ。その後、1978年の春になって、本格的に拠点をニューヨークに移した。それまでは、高校も卒業してブラブラしていたんだけど、少ない貯金をはたいて、家を出たんだ」
__アイク・ヤードは、どのようにして誕生したのでしょうか?
「ニューヨークに来てから、最初はクラウス・ノミなんかも出演していたアーヴィング・プラザというハコの、<ニューウェイブ・ヴォードヴィル・ショウ>というイベントに出演したり、ザ・フュートンツ(The Futants)というバンドに参加したり…という感じで、音楽をやっていたね。で、1979年末にザ・フュートンツが解散して、アイク・ヤードを結成したんだ」
__アイク・ヤードというバンド名の由来は何ですか?
「その頃、ちょうどアンソニー・バージェスの『時計じかけのオレンジ』を読んでいたんだ。テレビでも、この小説の映画をやっていて、劇中のレコード屋に出てきたのが、アイク・ヤードという名前だったんだよね。ちなみに、ヘヴン17も、ここに出てきてた名前だよね。アイク・ヤードって変な名前だなぁと思ったんだけど、(この物語は)ディストピアの指標みたいなところがあったし、“いいかも”って思ったんだ。僕は昔から、小説に影響を受けることが多かった。バージェスもそうだけど、J・G・バラードとか、ウィリアム・S・バロウズとか、小松左京や村上龍なんかもね」
__CrépusculeやFactory Americaから作品をリリースするようになった経緯について、教えてください。
「最初にデモを送ったのが、Crépusculeだったんだ。ミッシェル・デュヴァル(Crépusculeのボス)が、すぐに返事をくれたよ。Crépusculeは、もともとFactoryと近い関係にあったから、そこを通じてFactoryともつながったんだけど、Factoryからリリースできるってなった時は、さすがに驚いたね。ある日、レコーディング中に、トニー・ウィルソンがスタジオにやってきて、“やぁ”って声をかけてくれたりして」
__アイク・ヤードが1983年に解散した理由は、何だったんでしょうか?
「1982年の終盤あたりから、徐々に活動のペースがスローになっていった。Factory Americaからリリースして、雑誌とかに良いレビューがいくつか出て、スーサイド、ニュー・オーダー、セクション25なんかとステージを共にしたりしてたんだけど、レーベルのサポートをそれ以上受けられなくて、フォーカスを失ってしまったような状態になったんだ。フェードアウトだね。で、西ベルリンに行って、しばらくマラリアのメンバーと一緒に住んだりしたよ! DAFやノイバウテン、当時タンジェリン・ドリームにいたマイケル・ホーニングなんかと、コラボしたりしていた」
__そして、その後デス・コメット・クルー(DCC)や、ドミナトリックスなんかをやっていくわけですね。アイク・ヤード後に関わった、それらのバンドについて教えてください。
「もともと、いろんなサウンドに興味があったから、その時々で、複数のプロジェクトをかけもちしてたんだ。ドミナトリックスは、パワーみなぎる女性達との出会いがもたらした産物だね。ワシントンD.C.で出会ったった女性、NYCで出会った女性、彼女達と会わなければ、このプロジェクトははじまらなかった」
__デス・コメット・クルーの方は、いかがですか?
「DCCは、「The Dominatrix Sleeps Tonight」(’84)のヒットに対するカウンターだった。ニューヨークのアップタウンから出てきたヒップホップという新しいサウンドに対する、ダウンタウン・アーティストからの回答、という意味合いも持っていた。DCCは、その後デス・コメットという名義に進化して、サイバー・マシーン・ロックとでも言ったらいいのかな…そういうサウンドを追及していったよ。マックス・ヘッドルームと一緒にショウをやったり、1985年にはゼム「Mystic Eyes」のカバーをやったりもしていたね」
__なるほど。
「1988年には、友人たちとザ・ブードゥーイスツ(The Voodooists)というプロジェクトをスタートさせた。ウィリアム・ギブスンの『カウント・ゼロ』とか、当時セントラル・パークで流行っていた、ハイチや南米帰りのトラベラー達のブードゥー体験にインスパイアされてはじめたユニットだよ。で、ブードゥーの僧侶達の協力を得て、クラブ・ミュージックとハイチのリアルなハイブリッドを目指した。’92年には、日本の『ビデオ・ドラッグ』という映像作品の続編を制作することになって、『ビデオ・ブードゥー』をつくったんだ。これはレーザーディスクで、当時TOSHIBA EMIから発売されたね」
__そうなんですか。
「少し戻るけど、1989年にはDCCのシモカワ・シンイチと、ブラック・レインというポスト・パンク・バンドもやっていた。GGアリンの最期のギグでも演奏したよ。あとは、1994年頃に、ウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』の、オーディオ・ブックのサントラをプロデュースしたり、ロバート・ロンゴ監督の『JM』(キアヌ・リーヴス主演)のスコアも担当した。1997年は、テレビ番組の音楽をたくさん制作した1年だったね。結局、約80番組もの曲をつくったんだ。その後も、テレビ関連の仕事はいろいろとやっていて、2001年には『トラウマ:ライフ・イン・ザ・ER』という番組が、エミー賞にノミネートされたりもした」
__’90年代は、サウントトラックの仕事が多かったんですね。では、アイク・ヤードを再結成しようと思ったきっかけは、何だったのでしょうか?
「’00年に、ドイツのGommaレーベルに誘われて、『Anti N.Y.』というコンピに参加したんだ。そこに、アイク・ヤードとDCCの楽曲を提供した。それがきっかけになって、アイク・ヤード、DCC、ドミナトリックスの再発が始まってね。そんな流れもあってか、僕自身も“今、また何かをやりたい”という衝動に駆られたんだ。そして、DCCを再結成した。代官山UNITでもライブをやったよ(’05年に、故ラメルジーと共に再結成ライブを行っている)。で、その時の再結成が好評だったので、“じゃあ、次はアイク・ヤードかな”っていうことになったんだ。で、試しにみんなで集まって、スタジオに入ったんだけど、その時にいい感触を持つことができてね。正式に再スタートしよう、ということになった」
__最新作『ノルド』で、映画『アカルイミライ』(’03/黒沢清監督作品)の主題歌、THE BACK HORN「未来」をカバーした理由は何ですか?
「『アカルイミライ』を観たら、エンドロールで「未来」が流れてきて、それが映画の終わりに良くマッチしていて、印象的だった。で、この曲のPVも観たら、それがまた素晴らしくてね。“これはカバーをやってみたい”ってことになったんだ。実は、僕の妻は日本人で、日本にはもう何回も行っていてね。東京以外にも大阪とか、京都とか、いろいろな都市を訪れているんだよね」
__そういうことでしたか。では、今後の予定を教えてください。
「アイク・ヤードとしては、未発表やライブをまとめた作品をリリースできれば…って考えている。過去の未完成曲に取り組むプランもあるよ。DCCには、新しい12インチがあるんだ。ロンドンのCitiniteというレーベルから出る。アルバムもつくろうって相談をしているけど、まだ決定していないね。あとアメリカでは、ドミナトリックスとDCCの再発企画が進行中だよ。実はドミナトリックスにも、ニュー・アルバムの予定があるんだ」
__楽しみですね。
「あと、新しいグループもはじめている。アウトポスト13というユニットで、ライヴ・スカルのマーク・C(と、ザ・ホーリー・ゴーストのケント)と一緒にやっているんだ。今、デビュー・アルバムをミックス中で、4月にはヨーロッパ・ツアーを予定しているよ。最初のEP『Vandal Tribes』が、僕のレーベル、Recから発売中だ。日本のDiskotopiaというレーベルのために、ドミナトリックス名義でA Taut Line & Hong Kong In The ’60’sのリミックスをやったね。イタリアのザ・ユニッツ – コネクションズというユニットのリミックスもやった。タッスル「Don’t Stop」、LCDサウンドシステム「Beat Connection」リミックスもやったけど、LCDの方は、まだリリースされていないな。最後に、僕自身のソロ・アルバムも制作している。いろいろと忙しいけど、また近いうちに日本でギグができたらいいね」
【アルバム情報】
IKE YARD
Nord
(JPN) CALENTITO / CLTCD-2002
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tracklisting
01 – Traffikers
02 – Mirai
03 – Masochistic
04 – Oshima Cassette
05 – Metallic Blank
06 – Beautifully Terrible
07 – Type N
08 – Citiesglit
09 – Shimmer
10 – Orange Tom
11 – Robot Steppes
【オフィシャルサイト】
http://calentito.net/
http://www.myspace.com/ikeyard
【試聴】